誰しも人生の中で「音楽との出会い」と呼べる時期があるだろう。僕は中学2年生のとき、それまでに貯めたお年玉で、お茶の水の楽器店でクラシックギターを買った。当時6000円だったという記憶がある。なんとなく楽器をやりたかったが、ギターならできそうな気がした。
それ以前に関心を持った楽器は、トロンボーンだった。トロンボーンの渋く深みのある音が大好きだったし、演奏するときにスライドさせるあの独特のスタイルがカッコよかった。小学生の頃は、『旧友』という行進曲の中でトロンボーンが演奏するパートが大好きだった。しかし、トロンボーンはちょっと買えなかったし、中学生の頃はむしろ運動部で汗を流すことが中心の生活だった。
僕は世田谷区立烏山中学で軟式テニス部に属していた。中学1年の時に東京オリンピックがあり、10月10日の開会式の日に青空の向こうにジェット機が五輪のマークを描き出しているのが自宅から見えた。「体育の日」が生まれた、その日である。
ラジオからは、いわゆる和製フォークソングが流れ始めていた。マイク真木の『バラが咲いた』のような歌いやすい曲が人気があった。
中学の林間学校に行くと、キャンプファイヤーの出し物で、加山雄三の『君といつまでも』みたいな曲がよく歌われたりした。歌謡曲が少しずつ和製ポップス(J-POPの前段階)という形に変わりつつある頃だ。やがて、グループサウンズの大群が押し寄せてくる。「ブルーコメッツ」「ワイルドワンズ」「タイガース」「スパイダース」・・・。街を歩くと、エレキギターのテケテケテケテケがラジオから聞こえてきた。
もちろんカラオケやCDなどない時代だ。カセットテープの前のオープンリールのテープレコーダーさえ、自分達の生活空間にはなかった。(テープレコーダーは存在したが、一般家庭では高くて買えなかった)。録音もできなければ、BGMもない。そうなるとギターは威力を発揮する楽器になる。どこにでも持ち運びできて、みんなで歌える。いわゆる「歌伴」専用楽器だ。
そして、「ビートルズ」がやってきて、今までとはまったく違うサウンドが日本の若者達を覆い尽くすことになる。
ただ、僕自身はビートルズの影響を受けるのは高校生になってからで、中学時代は、見よう見まねで、クラシックのソロ曲をギターで弾こうとしていた。タルレガ、ソロ、ジュリアーニ・・・こういう名前を出してもわかっていただけるだろうか。『アルハンブラの想い出』をトレモロで弾いたり、『アランフェス協奏曲』の輸入楽譜を、池袋の楽譜店でやっとのことで見つけ、迷いに迷ったあげく、何ヶ月分かの小遣いをはたいて手に入れた日の感激を覚えている。
考えてみれば都会に住んでいたわりには(といっても当時の世田谷は畑ばかりで都会とは呼べなかったが)、自分の音楽環境はずいぶん偏っていたのかもしれない。僕より数年しか年の違わない村上春樹は、東京オリンピックの前年の1963年、14歳のときにラジオで、「ビーチボーイズ」の『サーフィンUSA』と出会ったというのだから。
和歌山で生まれ、松山、大阪、神戸、大分と各地を転々と生活してきた僕は、東京の中学生になる前に5回もの引越しを繰り返し、6ヶ所を渡り歩き、心の底で何かが不安だったのかもしれない。いつも部活が終わった後、目の前に畑の広がる烏山の2階建ての安アパートのベランダで、ひとりでバッハのプレリュードを弾いていた。そして、いまこれを書いていて急に思い出したのだが、当時僕は、将来ギタリストになりたいと本気で思っていたのだ。
自分と音楽との出会いを書こうとして、今日はつい長々と語ってしまった。こんなわけだから、ジャズと出会うまでには、このあとも相当長い時間を要することになる。